人 生 漂 流 日 記
 
俺が駆け抜けた、青春の4ページ。
 



2005/12/17 レポート提出。

パーソナルコンピュータが普及し、もはやそれ無しでは仕事や学業に支障が出てしまう昨今。ビジネスの各分野では、コンピュータユーザー向けの市場合戦を繰り広げている。その中の一つに、「コンピュータゲームソフトウェア」が挙げられる。この度は、そのゲーム中に登場するキャラクターについて論じる。
まず、ゲームキャラクターと言っても様々な部類があるので、一つに絞り込むことにする。私が選んだのは、今現在、最も偏見が多いであろう「美少女ゲームキャラクター」である。このキャラクターの登場するゲームの内容の多くは、「恋愛」をするというシチュエーションである。プレイヤーは主人公となり、学園内や、仕事場といった舞台の中で美少女キャラクターと恋に落ちていく。もちろん、喧嘩をすることもあるし、時には恋人が死んでしまうといったストーリー展開もある。そのような内容の中で、プレイヤーは少女達に恋をしていく。
さて、先ほど述べたように、この分野のユーザーには偏見を持たれる場合が多い。例えば、「二次元コンプレックス」、「ヲタク」、「ロリコン」と、挙げていけば切がない程の呼び名がある。これらの言葉自体に悪意はないが、世間一般からは皮肉を含めて言葉を発せられている。それは一体何故なのか。
第一に考えられるのが、仮想現実の中で恋愛をしているということだろう。一般に言われる現実とは、今私たちが生きる世界の事である。それとは異なった、コンピュータゲームの中の世界で恋愛をしているために偏見を持たれてしまう。つまり、現実から逃げていると認識されてしまうのだ。
確かに、ゲームの中の世界は存在しない。しかしそれは、この現実に存在しないだけであって、プログラムが働き、画面上に、現実を生きる私たちの目で認識できる姿となって現れ、私たちの心の中に広がっているのである。
例えば、身近で同じ二次元として写真を挙げてみる。昔の親友らと写った写真を見る時に、様々な思い出を感じ、郷愁に浸ることはないだろうか。それは、写真という世界を見た私たちの心が、その中に広がる昔の世界をそっくりそのまま映しだし、あたかも自分がタイムスリップしてしまったかのように昔を思うからである。おそらくここで、それは現実にあった物を写したものだから、仮想世界とは違うと言われるだろう。しかし、写真に写された世界は既に現実には存在しておらず、それは紙という平面に映し出された単なる一枚の絵画に他ならない。そこに映し出された親友や思い出を思う行為と、画面上に映し出された人を思う行為に大差があるとは思えない。前者、後者共に、誰かを想っていることに変わりはないのである。他にも、恋人の写真を持っておきたいと思う事。それは、目の前にある現実世界の中に、例え相手が目の前に存在していなくとも、写真を見ることによって自分の心の中に相手を描きだし、自分の作った世界の中で相手を思うことができるからである。
次に、仮想世界のキャラクターに恋をしてしまう事について論じる。主に偏見を持たれるのはこれが原因だと思われる。しかし私は、この行為が変だとは思わない。
例えば、雑誌のグラビアアイドルや、芸能人の写真集に見入る行為。その人が何故見入っているのかというと、その人物が自分の理想と重なる部分があるからであり、それが恋かどうかは別として、少なからず自分の理想を追い求めた結果であると考えられる。ゲームのキャラクターも同じ事である。未だ出会わぬ自分の理想を、自分の周りの人間ではなく、ゲームキャラクターに見ただけなのだ。自分の理想の姿がそこにあれば、現実であっても仮想であっても、それを無意識に追い掛けてしまうのが人間の本能だと私は思う。私たちは、常に自分の理想の具現化試み、その姿を追い求めているが故に恋をし、失恋をし、涙を流すのだと思う。例えそれが現実であっても、仮想であっても同じ事が言えるだろう。
このように、仮想現実を楽しむ人たちは、ただ単に偏見で見られているだけであり、その行為自体は何等偏見を持つ人々と変わりないのである。私はいつの日か、この偏見がなくなり、擬似恋愛が恋愛の形の一つとして認められることを願いたい。

(終)
3481字


本気で読みたい方は印刷して読むことを勧めまふ。



12月17日(土)03:11 | トラックバック(0) | コメント(0) | ヲタク | 管理

コメントを書く
題 名
内 容
投稿者
URL
メール
オプション
スマイル文字の自動変換
プレビュー

確認コード    
画像と同じ内容を半角英数字で入力してください。
読みにくい場合はページをリロードしてください。
         
コメントはありません。


(1/1ページ)